超アウトプット日記

ひたすら脳内をアウトプットしていくブログ

誰もが穏やかに過ごしたい。

誰もが穏やかに過ごしたい。


生涯を終える時、最後の一日を過ごす時、どんなふうに過ごしたいだろうか。きっと、誰もが、穏やかに過ごしたいと思うのではないか。


よく聞くフレーズとして、今日が最後の一日と思って生きなさい、というのがある。が、はたしてどれほどの人間が、それを本当に想い、本当に実行しているのだろう。そのフレーズだけが頭に残っていて、実は全くそのように生きていなかった、という方も、多いのではないか。


どうもこのフレーズを聞くと、もっとあれをしておけば、とか、もっとたくさんの行動をしておけば、などといった行動にフォーカスをしてしまって、余計に忙しくなったり、余計に心に余裕がなくなったりする。だがそれは違う。


最後の一日というのは自分が死ぬ日である。今日死ぬ、というのに、いったいなんの行動をすると言うのだろう。そんないくつかの行動をしたからといって何が変わるというのだろう。

行動ではなく、その一日を、どんな想いで過ごすのか、ということ。


そもそも最後の一日というのは、ほとんどの場合、病院の中で寝たきりだったり、自分で自分の体を動かすことができなかったりする。心も体も弱りきっているときに、よし、あれもやって、これもやって、スイーツも食べて、などは思わない。それはインフルエンザにかかった時のことを思い出せばなんとなくわかるだろう。

誰もが最後の一日は、穏やかに過ごしたいと願う。そして許せない相手も感謝の対象に変わる。


許せない相手が目の前にいるだけで、ただそこに居てくれるだけで、ありがとう、と感謝の思いがわいてくる。どんなに最低のヤツでも、なぜか最後は感謝に変わる。そいつはただ、存在しているだけで良かったのかもしれない。


そこに存在している。その一点。その圧倒的な事実。それだけで、どれほど励まされるだろうか。どれほど安心できるだろうか。人はただ存在しているだけで絶大な力を放っているのだ。


私はたくさんの人に支えられ、たくさんの人に背中を押してもらった。しかし、私もまた、たくさんの人の背中を押してきたのではないか。そしてこれからも、誰かを励ますことになるだろう。なぜなら、私は、今ここに確かに存在しているからだ。存在しているということは、誰かを励ましているということになる。


話をまとめよう。今日が最後の一日と思って生きる、ということは、今日という一日を穏やかに過ごすことだ。なぜなら人は、最後の一日を迎えたときに、穏やかに過ごすことを望むからだ。つまり意識的に今日という一日を穏やかに過ごすと決めることが、今日を最後の一日と思って生きることになるのではないか。


腹が立つことの多い世の中だが、私は今日を穏やかに過ごすことに決めた。なぜなら、それこそが、最後の一日の過ごし方、であるから。






今回は以上になります。